批判的な人は自分への失望を隠している~アメリカインディアンの教え
ようやく暑かった夏も終わりに近づき、アイスコーヒー一辺倒だった我が家でもホットコーヒーに切り替えようと、今年の春に夫が一目ぼれして少し無理して買ったインペリアル・ポーレセンが出してありました。上品で落ち着いているのに華やかさもあり、薄くて軽く手にもフィットして、コーヒーがよりおいしく感じられるお気に入りのカップでした。
2客買って、夫と二人、楽しむコーヒータイムは至福のひと時でした。
そのカップが、小5の娘の不注意で、今日粉々に割れてしまったのです。(泣)
こんな時、あなたなら何と言いますか?私は娘を責める言葉を並べて叱りつけてしまいました。しかし後から帰ってきた夫は違いました。もっと注意するように言い聞かせながらもケガはなかったかと気遣いました。
ちょうど今読んでいる『アメリカインディアンの教え』(加藤諦三)という本を思い出しました。この本の第一章は『批判ばかり受けて育った子は非難ばかりします。』という章題で、その中で、『彼(批判的な親)は、日ごろから自分への失望を隠しています。そこで、彼は、子どもに批判的になり、「お前はだめだねー」と激しく失望して見せることで、あたかも自分が優れているように思いこんでいるのです』という話がありました。
確かに子どもを叱りつけるとき、わたしはまるで今まで一度も失敗を犯したことのない人のようにふるまっていました。新約聖書のヨハネによる福音書8章にある、こんな逸話も思い出しました。
1.イエスはオリブ山に行かれた。
2.朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
3.すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4.「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5.モーセは律法の中で、こういう女をを石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6.彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7.彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8.そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9.これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10.そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11.女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。
(口語訳聖書 ヨハネによる福音書より)
どちらも読んだときは、自分はこんな人にはなりたくないと、確かに思ったはずなのに、いざとなるとすぐに忘れて愚かにふるまってしまう自分に反省した日でした。
人間関係の中でも、親子関係は最も重要なものです。その子供の人格形成に影響を及ぼし、その後の一生を左右します。加藤諦三氏は先ほどの本の中で、批判されて育った子どもは行き過ぎた批判で自分に失望していき、次に他人を攻撃することで、自分への失望と戦おうとすると述べています。
カップを捨てるに忍びなくてボンドで修復してみましたが、当然元通りにはなりませんでした。子どもの心も同じではないでしょうか。時間が経ち立派に成長したと親は思っていても、実際は自分でも気づかないような傍目に見えない傷を心に抱えていたりするのです。
私も親になったとはいえ不完全で未熟な自分なので、神様に知恵のある人にしてくれるようお祈りして日々成長していけたらいいと思います。