映画『パウロ 愛と赦しの物語』を見て - True Vine

映画『パウロ 愛と赦しの物語』を見て

パウロ 愛と赦しの物語

劇場公開日 2018年11月3日

映画『パウロ 愛と赦しの物語』を見てきました。

使徒パウロと医者ルカが語る真実の秘話

『パッション』のジム・カヴィーゼルが、再び聖書の世界に挑む!

紀元67年。皇帝ネロがキリスト教徒たちを迫害していたローマ。獄中から非暴力の愛を叫び続けた使徒パウロを、彼の言葉を民衆に伝えるために書き記し続けた医者ルカの目を通して描いた、魂を揺さぶる感動の歴史大作!
イエス・キリストの最期の日を描いたメル・ギブソン監督の『パッション』でイエス役を演じたジム・カヴィーゼルがルカを、シェイクスピア俳優ジェームズ・フォークナーがパウロを熱演。監督は新鋭のアンドリュー・ハイアット、物語を彩る荘厳な音楽はジョニー・デップ主演の『ネバーランド』でアカデミー賞作曲賞を受賞したヤン・A・P・カチュマレクが手掛けている。

ストーリー

紀元67年、ローマの街を大火事が襲った。皇帝ネロはキリスト教徒による放火とし、首謀者はタルソのサウロ(別の名をパウロ)として彼を逮捕した。牢獄に入れられたパウロのもとを仲間である医者ルカが訪ねる。ルカはパウロの言葉を人々に伝えるために書き記していく。ネロの迫害は激しさを増す一方だったが、パウロはアキラとプリスカの夫婦にかくまわれているキリスト教徒たちに、暴力ではなく愛をもって戦うことを伝える。だが血気にはやった彼らは剣を取ってローマ軍に立ち向かおうとする。使徒となる前のパウロは、キリスト教徒たちを迫害する側の人間だった。回心前の自分が殺めた人々の夢を見て、うなされるパウロ。彼はなぜキリストの弟子になったのか?一方、パウロを迫害する獄舎の長官マウリティウスの娘が瀕死の病となり、頼みの綱はルカだけだったが・・・。捕らえられ、殉教していった弟子たちに続き、パウロにも運命の時が迫る。弟子テモテに最期の手紙を書くパウロの心境は?
そして娘の運命は?

以上、オフィシャルサイト より


 

聖書に関する映画だったので見に行ってみましたが、第一印象は、暗い・・・。(以下ネタばれあり)

主人公のはずのパウロは最初から牢獄にいて、鞭うたれ、死刑が確定しています。皇帝ネロにとらえられたと思われるキリスト教徒たちは街頭でまるで街灯のように生きたまま油をかけられ燃やされて悲鳴を上げながら死んでいきます。アキラとプリスカの夫婦をリーダーとするキリスト教徒のコミュニティは、いつ捕まるかいつ殺されるかとびくびくしながら隠れて暮らしています。そこへ医者であり福音書の記者であるルカがやってきて、獄中のパウロに面会してはパウロの言葉を書き綴ってゆきます。

思ったのは、人はなんと残忍になれるのかということ、信仰は何と人を強くするのかということ、今の時代に信仰の自由があってよかったということです。

ネロによるクリスチャンの迫害は深刻さを増す一方で、クリスチャンのコミュニティの女性が血まみれで帰ってきます。けがを気遣う仲間に、自分の血ではない、殺された夫と赤ちゃんのものだと泣きます。コミュニティ内では今後逃げるのかとどまるのか立ち向かうのか、意見がまとまらず、パウロに意見を求めますが、パウロからの答えは暴力に暴力をもって応えてはいけない、愛をもって応えよ、逃げるかどうかは各人が祈って得た答えに従えというものでした。しかし血気はやる若者たちにはそんな言葉が理解されるはずもなく、牢獄に討ち入ります。そのせいでとらえられていたクリスチャンたちは処刑されます。その時パウロと一緒にいたルカにも処刑が言い渡されますが、獄舎の長官マウリティウスの娘の病気を治療してやり、処刑を免れます。
マウリティウスの妻はローマの神々を熱心に信仰していて、家には大きな顔をかたどった偶像と祭壇があり、ルカに診せる前には鳥(あひる?)を殺していけにえとして供えたりして娘の回復を祈っていました。でもどんなに祈っても病状は悪化するばかりで手立てがないのです。

このあたりは、祈る相手を間違えていることにも気づかず一心に祈る人間の愚かさやあわれさを見事に表現していました。

パウロはもともとはサウロという名前の熱心なユダヤ教徒でクリスチャン迫害の急先鋒を担う人物でした。クリスチャンの最初の殉教者となったステファノを石打にして殺すのに立ち会ったのをはじめ、幼い少女も含めたくさんの人を殺してきた過去を持ちます。でもダマスコに行く途中で「なぜ私を迫害するのか」というイエス・キリストの声を聴き、一時的に目が見えなくなり、アナニヤという人のお祈りによってまた見えるようになるという経験を通して救われます。映画の中のパウロはその時殺した人々の夢に苦しめられつづけています。

このパウロの回想からはイエス・キリストに本当に出会った人は、ここまで変われるということを見せつけられます。逆に、何も変化がないのなら、それは本当にイエス・キリストに出会ってはいないのです。

パウロの処刑の前に、美しい庭でマウリティウスにパウロが語る場面が印象的であり、いろいろと考えさせられました。
記憶に頼って書いているので正確ではないのですが、
「弱さを誇る」


「生きても益、死んでも益」
というようなことを言っていました。聖書の中の言葉ですね。


これらもとても含蓄のある深い言葉ですが、なかでももっとも私に強く語りかけた言葉は、「この世の人生は手ですくった水のようなものだ。どんどん指の間から流れ落ちていく。その一滴のためにこの世の人は躍起になる。でも、クリスチャンは大海(天の御国)を見ている。」というようなものでした。(不正確ですみません)

まるで今の自分を言い当てられているようでした。

あくせく働いて、小さなことにイライラして、いちいち心配して。

本当に大事なことは何なのか忘れかけていました。

 

白状すると、実はこの映画、最初のほうは眠かったのですが、途中からは祈りの力のようなものが画面を通してビリビリと伝わってきて、眠気は吹っ飛びました。

全体を通して暗い印象の映画でしたが、考えさせる内容でした。

 

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