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【韓国光州】5・18民主化運動記念館へ行ってきました

5・18光州民主化運動(光州事件)に学ぶ

先日、韓国の地方都市・光州広域市にある5・18民主化運動記念館錦南路5・18民主広場、旧全南道庁に行ってきました。

5・18民主化運動記念館は、5・18民主広場と旧全羅南道庁から錦南路をすこし歩いたところに位置する7階建ての建物で、もともとはカトリックセンターでした。カトリックセンター前は当時もっともはげしい戦闘が繰り広げられたところだそうです。

カトリックセンター

5・18民主化運動記念館。以前はカトリックセンターだった。

1980年5月18日から27日明け方までの10日間、光州で起こった学生と軍との衝突に端を欲する5・18光州民主化運動(光州事件)は、韓国が現在の民主国家としての形を整える礎となった重要な事件です。

しかし、政府の流したデマと言論統制によって長年の間韓国内でも光州以外の人にほとんど正確に知られていなかったという側面もあり、現代の私たちにもいろいろな示唆を与えてくれる事件でもあります。

日本は敗戦とともに連合国軍によって与えられた民主主義を享受してきたので、自由民主主義など全く当たり前のこととして、生活している人が私を含め大半だと思います。

しかし、割と近い過去に軍事独裁政権を経験した韓国は、市民が命を懸け血を流して自由民主主義を勝ち取ったという経緯があるからこそ、政治権力を常に監視し、間違っていると思えばデモや請願で行動を起こし、選挙は自分事として真剣に向き合って候補者を選ぶ姿勢ができているのだろうと思いました。

日本には、こういう姿勢を、熱くなりすぎだとか、未熟だとか、どうせ何も変わらないとか言って冷笑する人たちが一定数いることを私は知っています。

果たしてそうでしょうか?香港ミャンマーを見てください。

ある日突然笑えなくなる日が来てもおかしくないのです。

今日は少し重いテーマですが、光州事件から私たちが学ぶべきことは何か考えてみたいと思います。

 

5・18光州民主化運動(光州事件)の経緯

事件前の経緯

光州事件の前年の1979年10月26日に、長年独裁を続け民主化運動を弾圧してきた朴正煕大統領の暗殺事件が起こり、一時的に政治的自由が回復し「ソウルの春」と呼ばれる民主化ムードが高まる時期に入ります。

しかし一方で12月には当時保安司令官で陸軍少将だった全斗煥粛軍クーデターを起こし、軍部の実権を掌握します。

1980年3~5月中旬にかけて、10月26日以降続いていた戒厳令撤廃などを要求する大規模な学生デモや労働ストライキなどが全国で頻発してくると、5月17日全斗煥が率いる新軍部は国会を解散させ、国家保衛非常機構を設置し、非常戒厳令を全国に拡大させます。同時に野党新民党総裁の金泳三・在野指導者の金大中や、民主共和党総裁の金鍾泌を逮捕・軟禁してしまいます。

この戒厳令により、屋内外の集会・デモは禁止され、すべての言論は検閲が実施されることとなり、各大学は無期限に休校となり、労働者の職場離脱やストライキも禁止となります。

戒厳令全国拡大と大学休校を伝える新聞

戒厳令全国拡大と大学休校を伝える新聞。

5・18民主化運動(光州事件)の時系列の経緯

翌日の1980年5月18日朝10時ごろ、光州市の全南(チョンナム)大学校の正門を封鎖する武装した3~40人の戒厳軍と、休校令撤回と戒厳令解除を求めて抗議し帰らない学生とがにらみ合った末、少佐の突撃命令により、逃げる非武装の学生に対し、兵士は追いかけて容赦なく鎮圧棒で頭などを殴打し連行しはじめます。この暴力事態に驚き止めに入った市民も巻き添えになりました。

11時半ごろ、500人余りの大学生が錦南路カトリックセンター前で座り込みデモをします。しかし軍は無慈悲に鎮圧

これ以降、市民が少しでも集まると、軍は解散しろと威圧し暴力を振るうようになります。

 

19日には戒厳軍は増員派遣され、市内のあちこちで市民と戒厳軍との衝突が起きます。軍は装甲車4台とヘリコプターまで動員し、市民5千人が対峙すると、とうとう市民に発砲するに至ります。この時ヘリコプターからも発砲があったようです。旧全羅南道庁やその近くの全日ビルには当時の弾痕がたくさん残っています。殴打による最初の死者も発見されます。この人は聴覚障碍者だったそうです。

全日ビル

現在の全日ビルディング。白い壁に残る弾痕にオレンジの印がつけてある。

 

20日には中学校と高校にも休校令がでます。夕方には錦南路でバスやトラック、タクシーなど200台による大規模な車両デモが起こります。

戒厳軍と警察は催涙弾やガスでデモの運転手を攻撃、市民は窮状を訴えるため労働庁や税務庁を訪れ、事態をきちんと報道しない放送局にも抗議し、放送局は火災も発生します。

 

21日早朝には光州と外部をつなぐ電話も遮断されます。午後1時、市民に対する無差別集団発砲が行われます。狙撃手による市民への狙撃も行われ、多くの人が銃弾に倒れ、病院は野戦病院と化します。この時の死者は50余名、死傷者は5百余名にも上りますが、いまだに発砲命令権者が明らかになっておらず、だれも責任を負っていません。

ハ・ソンホプ作「80年5月21日」。右端の建物が全南道庁でその前が5.18民主広場。午後1時、道庁のスピーカーから愛国歌が流れると、市民はある者は涙しながら一緒に歌ったが、1節目が終わるのを合図に、軍は市民に集団発砲を開始した。

市民代表が道庁の同知事に事態の打開を掛け合いますが取り合ってもらえず、市民は結局自動車工場の装甲車や警察や軍の弾薬庫の武器を確保し自衛のため武装することを選びます。

戒厳軍と市民軍は市街戦を展開し、道庁から戒厳軍を撤収させることに成功します。

旧全南道庁

現在の旧全南道庁の建物。あちこちに無数の弾痕が残っている。現在は復元事業が進行中。

都心から撤退した軍は、外部には光州は現在、治安不在状態だと伝達し、光州市の外郭を取り囲んで光州に出入りしようとする市民を攻撃、多くの死者・行方不明者が出ます。

これにより光州市は完全孤立状態になります。

 

一方、光州市民は、21日から26日まで自治を行います。神父、牧師、弁護士、教授、政治家などを構成員とする5・18収拾対策委員会と、学生収拾対策委員会が結成され、戒厳軍司令部との交渉を行いましたがうまくは行きませんでした。市民は自主的に献血、街の掃除、死者の追悼、ガリ版印刷による広報、無料の炊き出しなどを行いました。

 

26日には軍は再び装甲車で侵入を試みますが、神父など市民の代表が道路に寝転がるなどして体を張って阻止します。

 

5月27日早朝道庁鎮圧命令が下り、戒厳軍が都心に再び入ってきました。全南道庁に残れば生き残るのが難しいことは明白だった中で、前日夜の間に市民軍は残る者と出ていく者を選別します。全員が残って死んでしまえば、真実を伝えることが難しいため、若い大学生や女性の多くは家に帰されていました。早朝4時ごろから道庁に残った300人ほどの市民軍は軍との1時間ほどの交戦の末、武力により鎮圧され多くの人が命を落としました。

この事件を通して光州に投入された軍の兵力は2万5千人にも上りました。

 

事件後から民主化まで

1980年5月27日、新軍部は国家保衛非常対策委員会を創設し実権を掌握、超法規的権力を駆使して、民主化運動関係者や政治家らを逮捕、情報部員や公務員、国営企業の役員などを大規模に整理していきました。9月1日には間接選挙により全斗煥が大統領に就任し、翌1981年3月3日の選挙でも間接選挙で大統領に再選されます。彼は光州民主化運動の武力鎮圧を実質的に指揮したと思われる重要人物ですが、1988年2月24日まで大統領を務めます。

言論に対する徹底した検閲と情報統制により韓国の光州以外の地域では518光州民主化運動は当時はほとんど知られていませんでした

「北朝鮮からのスパイが先導した左派勢力による暴動だった」というデマもまかれてあたかもそれが事実であるかのように受け取られていました。

1987年6月警察が拷問によりソウル大生を死亡させ、それを隠蔽しようとした事件がきっかけとなって政権への不満が高まり、再び大規模な民主化運動が起こります。これが6月民主抗争です。これにより、市民は大統領直接選挙や、集会デモ言論の自由、金大中氏をはじめとした政治犯の釈放などを勝ち取り、民主化が実現されていくことになります。

光州市民と大学生たちの努力により徐々に事実が明るみに出るようになり、1995年に「五・一八民主化運動等に関する特別法」と「憲政秩序破壊犯罪の時効等に関する特別法」が可決され、1997年4月にようやく全斗煥と盧泰愚に実刑判決が出されました。(しかし、1997年12月には金大中大統領により赦免されています。)

2011年5月、五・一八民主化運動に関する記録がユネスコ世界記憶遺産(世界の記憶)に登録されました。

 

デモが暴徒化したわけではなかった

公権力がデモを鎮圧したと聞くと、暴徒化した市民がいたからだろうと考えがちですが、驚いたことに光州の場合は実際には計画されていた過剰鎮圧・虐殺でした。

12月12日のクーデターで実権を握った新軍部は、民主勢力をおとなしくさせ、政権を簒奪するための名分が必要でした。そのためにわざと「国家変乱の暴動」を起こさせて鎮圧して見せたのです。

まず、光州に投入された軍隊は空挺部隊でした。空挺部隊はベトナム戦争などにも参戦した特殊作戦任務を行う特殊戦司令部、いわば精鋭部隊であり、普通に考えれば学生デモとは不釣り合いです。しかも彼らは事前に「攻撃的鎮圧訓練」を受けていたのです。(余談ですが、ドラマ「太陽の末裔」のユ・シジン(ソン・ジュンギ)も特殊戦司令部大尉でしたね。)

また、18日、19日の軍の行動を見ると軍は、上に書いたように逃げる学生を建物の中まで追っていって暴行を加えたり、デモに参加していない一般市民にも暴行を加えていることもその証拠です。

最初の死者となった聴覚障碍者も、18日にバスターミナルまで親せきを送って帰る途中で軍人に襲われて投げ捨てられています。

ほかにもタクシーに乗っていた新婚夫婦を軍人が引きずりおろして目が飛び出るほどの暴行を加えたり、新聞社に押し入って2人に暴行を加えたりしています。

 

この時の空挺部隊光州投入の暗号は皮肉にも「華麗な休暇」だったと後に伝えられ、同名の映画(日本語タイトルは「光州5.18」)も制作されました。

国家権力が自国民に対してこのような無慈悲で残虐な仕打ちを仕掛けるとは恐怖でしかありません。

自分たちは平和的なデモしかしないから流血事態になどなるわけがないと高をくくていると、痛い目を見る日が来るかもしれません。

欲に目のくらんだ権力者はときに悪魔のような非情さを見せるものです。

ペンは剣より強し

検閲により赤ペンで修正され書き換えられた当時の新聞の紙面。

ずるがしこい権力者は「ペンは剣より強し」という言葉をおそらく誰よりもよく心得ています。

だから言論弾圧を行うのです。

香港でもほんの2週間前の2021年6月24日に中国に批判的な論調で知られていた新聞「リンゴ日報」が警察に資金を凍結され発行停止に追い込まれたと報じられていました。

ミャンマーをはじめ、インドやイランなど世界のあちこちで、「フェイクニュースの拡散防止」、「法の秩序を維持するため」などもっともらしい理由を付けた政府によるSNSやインターネットの遮断が行われています。ロシアやキューバは独自のイントラネットを使って世界の情報から隔絶しています。

光州事件が起こった1980年代はまだネットはありませんでしたから、政権は軍隊を使って放送局や新聞社には徹底的に検閲を行い、光州市外郭を完全に封鎖し、人の出入りを禁止し、電話も遮断します。

光州事件のさなか、戒厳軍の市民に対する残忍な行為を報道せず、市民の暴動と歪曲して報道した放送局に市民が抗議、火災が発生しています。

 

5・18光州民主化運動を扱った映画「タクシードライバー」ではソウルから主人公のタクシー運転手がドイツ人記者を乗せて苦労して光州に入り、さらに苦労して助けてもらいながら命がけで出る様子や、政権側がドイツ人記者が撮影した映像を必死で奪おうとする様子など描かれています。この映画は光州事件について知りたければ必見の映画といえます。

光州事件の前後に当たる1979年10月27日から1981年1月24日までの455日間で、新聞、放送、通信などで検閲によりなんと2万7070件の記事が削除されたそうです。

絶対多数を占める市民に真実が知られれば、義憤にかられた市民に少数の権力者は太刀打ちできないことをよく知っているからこそ、徹底して情報統制するのでしょう。

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また、後ろめたい権力者は情報操作も行うのが常のようです。

全斗煥率いる軍事政権は光州から情報が出ないようにするだけでなく、新聞などを使って「北朝鮮のスパイが先導した暴動だった」というデマも流布しました。

これにより、多くの人が命懸けで戦った民主化運動は、共産主義者の起こした暴動と長らく歪曲されることになります。

光州の人がいくら真実を話しても、他地域の人に信用してもらえないという悲しい現象が起こります。

 

518以降も軍事独裁政権は継続し、なかなか民主化できずに7年も過ごすことになります。

 

情報操作といえば以前ご紹介した「新聞記者」という映画が思い浮かびます。

日本で実際にあったことを描いた衝撃的な映画です。まだ見ていない人はぜひ見てみて下さい。

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命令に従っているだけの人と自分で考えて行動する人

世の中には、命令に忠実に従うだけの人と、自分で考えて行動する人がいます。

光州事件でも戒厳軍の中には市民への発砲を命じられた時、わざと市民に当たらないようにやや上のほうをめがけて発砲した兵士もいたと聞きます。

上述の映画「タクシードライバー」でも、主人公が嘘を言っていることを知っても、気づかなかったふりをして検問を通してくれる兵士が登場します。

彼らは自分の良心に従って行動しているのです。

6月民主抗争のきっかけとなった拷問死事件でも、隠ぺい工作に気づき、権力に逆らって明るみに出そうと行動したキーポイントとなるところにいた市民一人一人が自身の正義感と使命感に基づいてできることを精いっぱいやった結果、最終的に民主化を果たすことにつながったのでしょう。

(6月民主抗争を扱った韓国映画「1987」もぜひ見ておきたい映画です。)

民主主義を獲得することの難しさ

一度独裁に陥ってしまうと再び民主化することがどれほど難しいかが韓国の事例からよくわかります。

少なく見積もっても7年、それ以前も含めるとさらに長い年月を要したことになります。

518民主化運動で亡くなった人は補償が支給された人だけで363名行方不明者は448名にも上ります。幼い子供も含まれています。

 

振り返って、現在のミャンマーでは、人権団体などによると2021年2月1日以降のこの5か月で、軍による反軍政市民の犠牲者は合計で892人に達しているそうです。

まだ終わりは見えません。

 

民主主義は一度失えば再び手に入れるのは至難の業です。市民は手にした民主主義を守っていかなければいけないとひしひしと感じます。

日本国憲法にも次のように書かれています。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない

ボーっとしていては、いつかずるがしこい為政者が表れていとも簡単に巧妙に市民の自由と権利を奪っていくことでしょう。

もしかしたら今がその時かもしれません。

 

コロナ禍の陰で何が行われているのか

さて、1年以上が過ぎても終息の兆しが見えないコロナ禍。

一時的な臨時措置として、要請という形ではありますが、罰金も伴った形で市民の権利を制約するさまざまな措置が日本だけでなく世界中で取られてきました。

ウイルスの蔓延防止のための一時的措置と思っていたのに、何度も緊急事態宣言が出されたりして常態化してきています。

あまり長引くと、慣れてしまいやすいのですが、権利を侵害されること当たり前と思ってはいけないとよく覚えておく必要があります。

権利が徐々に奪われていっていることに気づかないのはとても危険です。

 

つい先日の7月8日には西村康稔経済再生担当相が、酒類を提供する飲食店が休業要請に応じない場合、「店舗の情報を関係省庁、金融機関とも共有し、金融機関からも応じてもらえるように働き掛けを行ってもらう」と発言しました。これはつまり、「いうことを聞かないお店にはお金を貸すな」と政府が、金融機関から、監視、圧力をかけるよう勧めているようなもので、大問題です。政府にそんな権限はないと立憲民主党の安住淳国対委員長も指摘しています。西村大臣は批判を受けて9日に撤回しています。

さらに、西村大臣は、酒の販売業者にも取引を停止するよう求めていて、こちらは撤回していません。

『酒類販売業者におかれては、飲食店が要請に応じていないことを把握した場合には、当該飲食店との酒類の取引を停止するようお願いします』と驚くべきことが書かれた文書を酒類販売業者の組合に内閣官房と国税庁酒税課の連名で出しています。

問題は、国税庁には、酒類の販売の免許を出す権限があるということです。

十分な補償も出さずに酒屋に酒を売るなという横暴な要請を、影響力のある国税庁が出すのは、もう大問題です。

加藤官房長官はこの問題について調整したいとは言っていますが…。

 

おかしなことはおかしいと声をどんどんあげていかなければいけません。

そのためにもメディアは市民に正しい情報を伝える義務がありますし、市民は政治ニュースに関心を持つべきです。

 

大臣がこんなことを言い出す政府はかなり信用ならないとみるべきです。

参考記事(時事通信):西村担当相、要請拒否の店舗情報を金融機関に 菅首相「承知せず」、野党反発

  参考記事(nhk):酒提供の飲食店と“取り引き停止を” 国が要請 抗議も

 

ここに潜むもう一つの問題は監視社会の導入と市民の分断です。

お互いを監視するような社会にでもなれば市民は団結できず権力者の思うつぼです。

光州の民主化運動では市民の団結力がとても強かったようです。

大都市でありながら発展が遅れていて昔ながらの人情が保たれ隣近所とのつながりが深かったため、大人たちが学生への軍の無慈悲な暴力に自分事として憤り、学生に代わってデモの先頭に立ったと聞きます。病院でけが人の治療に血液が足らないと聞けば大勢の市民が献血をしに駆け付け、オモニたちはたらいいっぱいのおにぎりを作って市民軍に配ったり、ガソリンスタンドは無料でガソリンを入れてあげたりしたそうです。略奪行為も起こらず、銀行すら無傷だったといいます。

外国語を身に着けよう

1980年5月28日の朝日新聞。

1980年5月20日の朝日新聞(左)と5月27日の朝日新聞(右)。

光州民主化運動では、厳しい検閲と言論弾圧で韓国内での報道が規制される中、「タクシードライバー」に出てくるドイツ人記者のような外国メディアが、真実を世間に知らせるうえで大きな役割を果たしました。

このことから外国語ができて、外国のメディアに接することができる人は混乱した状況で真実に近づくことが容易になることがわかります。

現在でも、例えばコロナ化が始まった1年前、pcr検査はあてにならないとまことしやかに日本では言われていましたが、韓国など海外ではPCR検査はとても信頼性が高くできるだけ早く大勢の人を検査して隔離すべきというのが一般的だったことは、海外に住んでいる人ならおそらくみんな知っているでしょう。

ガーゼでできたアベノマスクを日本政府がせっせと準備するよりずっと早い段階から、目の粗い布製マスクなどウイルスは余裕で素通りできることも、韓国で報じられていました。

情弱にならないためにも、英語でも韓国語でも身に着けておくといいと思います。

声を上げれば変わる

光州事件の前は独裁政権ではあっても一般市民はふつうの日常生活を営んでいました。

それが突然戒厳令がでて大学を軍隊が封鎖したのです。

ある日突然日常は失われることがあるということです。

これを肝に銘じて、日本でも選挙で意思表示ができるうちに真に市民のことを思う政権を樹立させましょう。

せっかく一人一人に付与されている選挙権を行使しないなどもったいなさすぎます。

韓国の選挙と比べると、日本の投票率の低さはにわかには信じられないレベルです。

これは選挙前の報道が極端に少ないメディアの責任がかなり大きいのではないかと私は思っています。

でもネットが発達した今の時代はその気になれば自分で調べることができます。

普段から権力を監視し、政治に対して声を上げないと、長期政権は腐敗して国民をなめてかかってきます

このコロナ禍でのひどい対応とオリンピック強行の姿勢を見て気づいた人も多いのではないでしょうか。

そして、国民が声を上げれば変えられることもコロナ禍の中で実証済みです。

例えば1年前の「お肉券」「お魚券」構想放棄、一度きりではあったものの実現にこぎつけた一律10万円給付、黒川検事長の定年延長を法改正によって後付けで正当化しようとしていると批判された検察庁法改正案の廃案、昨年末のGoToの停止、大阪都構想廃案などなど。

あきらめないで、声を出し続けていきましょう。

私が今声を上げたいこと

私が目下声を出したいのはオリンピックの中止です。

無観客開催になりましたが、ぼったくり男爵のあだなのバッハIOC会長をはじめとした五輪貴族の皆さんは豪華お食事付きで観覧されるんだとか。国民の血税をさんざんぶっこんで作った競技場なのに、国民は排除して関係者だけが優雅に観覧とはまったくいい御身分です。誰のためのオリンピックなのでしょう。

オリパラ期間中、海外から7~9万人もの入国者が見込まれるといいます。すでに入国した選手団などから次々と感染者が見つかっていますし、急速に増えているデルタ株やラムダ株などはワクチンが利きにくいこともわかってきています。ワクチンを打たずに入国する選手や関係者もいますし、だいたい、ワクチンは打った人の発症や重症化は防いでも、感染自体は防げないらしいですね。無症状感染でもしたら、周りに危険が及びます。選手団を送迎する運転手やボランティアでさえワクチンは1回しか打てていないとか。大丈夫ですか?

バブル方式とか言っていましたが、空港のお手洗いやコーヒースタンド、エレベーターなどで一般客と動線が交わる穴だらけのバブルということも報道されています。空港での検査もなぜかPCRではなく感度の落ちる抗体検査なんだそうで。選手はほとんどが隔離も免除で、五輪ファミリーや報道関係者は個室があれば外食もOKらしいですが、それで大丈夫だと本気で思っているのでしょうか。こんなことではワクチンが足らずにまだ接種できていない大多数の日本人の命が危険にさらされるのは明白です。命を懸けてまで大運動会を強行するなんて馬鹿げています。

世界中から人が集まれば東京発祥の新たな変異株ができてもおかしくありません。そんなものができて五輪後自国に持ち帰りでもしたら、今度は世界中から日本が恨まれませんか。世界の人の命にまで危険が及びます。そんな危険な綱渡りをするよりは、潔く今からでも中止の決断をしてほしいと私は思います。

宇都宮けんじ氏による「人々の命と暮らしを守るために、東京五輪の開催中止を求めます」オンライン署名にはすでに45万人以上の賛同署名が集まっています。

一人一人の声は小さくても、集まれば無視できなくなるのではないでしょうか。

現在の5.18民主広場。左の白い建物が旧全南道庁、右の緑の屋根の建物は市民の遺体安置所として使われた尚武館跡。正面奥やや右には当時のままの丸い噴水がある。

当時の写真

旧全南道庁別館ではアジアウォールストリートジャーナルのソウル支部記者だったノーマン・ソープ氏が寄贈した資料の特別展が7月31日まで開かれていたのでそれも見てきました。

写真には、人を人とも思わない戒厳軍の暴力行為や、遺体を前に嘆き悲しむ人たちの姿や、勇気をもって立ち向かう市民の姿がありました。

そこに展示されていた写真を、5·18記念財団(The May 18 Memorial Foundation)のインスタグラムで見つけたので、下に埋め込んでおきます。(注意:亡くなった方も写っています。)

5·18記念財団(The May 18 Memorial Foundation)のインスタグラムより。

 

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2件のフィードバック

  1. みゆ より:

    HANNAさん、はじめまして。
    私は父方の祖父・母方の祖父母が韓国生まれであることから、韓国の国家としての軌跡について、好奇心を持って育ちました。
    光州事件はやはり一番気になるところでしたので、こちらの記事は大変分かりやすく、勉強になりました。ありがとうございます。

    韓国語についての記事も楽しく拝見しています。
    HANNAさんのプルコギのレシピを試してみましたが、とても美味しかったです。

    コロナが落ち着いたら、ぜひ韓国に遊びに行きたいです。
    ブログの更新を楽しみにしています。

    • hanna より:

      みゆさん、はじめまして。うれしいコメントありがとうございます。
      承認とお返事が遅くなって申し訳ありませんでした。
      こんな長くて重い文章を載せても誰も読みたくないのではと思いながらの投稿でしたので、こうして実際に読んでコメントしてくださって、とても励みになりました。
      書くのが遅くて不定期ではありますが、頑張りますので、これからもよろしくお願いいたします。^^

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